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羽州街道交流会は東北のまちづくりを応援します。

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〒990-2441 山形県山形市南一番町1-23-403 えあーまりん内

羽州街道と宿場concept

羽州街道と宿場

 羽州街道とは江戸時代の街道で、奥州街道と並ぶ東北の二大街道のひとつでした。羽州街道の長さは約497km、奥州街道は全行程が約827kmありましたが、それに次ぐ長さを持つ街道でした。
 現在の国道113号、13号、7号にほぼ重なるコースで、福島の桑折で奥州街道から分かれ、宮城の七ヶ宿、山形、秋田と進み、青森の油川でまた奥州街道に合流。途中では上山や山形、天童、新庄、久保田、弘前の城下町を通っていました。
 江戸時代の文人墨客である菅江真澄や芭蕉を始め、克明な日本地図を著した伊能忠敬、幕末の思想家・吉田松陰、イギリスの女性旅行家イザベラ・バードなどが歩き、日記や紀行文、図絵などを残しましたが、それらの記録には羽州街道沿いの様子が生き生きと描かれ、当時の生活をうかがうことが出来ます。

 羽州街道沿いにあった宿場の数は58宿とも62宿とも言われますが、時代による変化や、宿場と宿場の間に置かれた間宿(あいのしゅく)、二つの宿場が月の半分ごとに交代した所などがあるため、性格な数ははっきりしていません。両端の桑折と油川は奥州街道の宿場として設けられ、発達した町です。
羽州街道宿場紹介では福島の桑折から青森の油川まで、個性ある旧宿場の姿を思い思いに紹介して行きます。


宿場ルート

奥州街道と羽州街道が交わるところ桑折町

福島県伊達郡桑折町 



羽州街道の起点【桑折宿】
 桑折は奥州街道と羽州街道の追分として栄えた宿場でした。参勤交代のため羽州街道を使う13大名と、奥州街道を使う5大名が通るほか、関東方面や福島各地から、出羽三山詣でに向かう行者たちが利用する宿場でもありました。桑折は徳川の時代、ほとんどを幕府の天領として過ごしましたが、もともとは伊達の領地で、伊達家発祥の地としても知られ、町内には14代伊達稙宗によって築城された西山城跡が残されています。
 この追分に平成18年12月、奥州・羽州街道の分岐点をあらわす「追分公園」が作られました。追分を復元したいという地元・追分地区の方々の長い間の熱意に、自治体が協力して実現したもので、昔の絵図に基いて忠実に復元され、往時を偲ぶことができるようになりました。
 このような活動に対して、平成19年11月、国土交通大臣より「手づくり故郷賞」が与えられました。地元の方々の熱意と、東北の二大街道の追分を後世へ顕彰しようと、大切に維持管理していることに対しての受賞です。
また、桑折は文化的なことが盛んな町でした。松尾芭蕉追善句会を催すなど俳諧が盛んで、陸奥と出羽の文化交流をうかがわせてくれます。

 町には盛んな俳諧を伝えてくれるものが残されています。江戸時代中期(安永8年・1779年)、この追分に建てられた句碑で、碑には「夕暮れに心の通う柳かな」と彫られています。その句碑と、「右 奥州仙台道」「左 羽州最上道」と彫られた寶永5年・1708年の道標がこの場所に再び立てられました。 復元された追分の景観から、街道を巡った人々がたくさん訪れ、古の道の遥かなる郷愁と静かなる感動を感じ取ってください。
周辺マップ(桑折町・渋谷 浩一)
 ↑福島県から小坂峠を越えて宮城県へ
 宮城県刈田郡七ヶ宿町



 七ケ宿街道で最も大きい宿場です。天文年闘(1532〜55)の頃は、「早瀬の関」や「下の関」と言われ、関所を設け関銭を取っていたところのようです。藩政時代の関本陣渡部家では、―夜にして200人を宿泊させたと言われております。秋田屋、常陸屋、菅原屋、吉田屋、聶屋、米沢屋、泉屋、最上屋など旅寵屋や木賃宿だった名残を表す屋号をもつ家が今でも残されております。周辺マップ



 七ケ宿街道の中で唯一当時の面影を残す安藤家がある宿場です。天保年闘(1830〜44)までは桜井家が、その後明治まで安藤家が滑津宿の肝入検断を務めております。また、地区の東はすれには、戦国時代伊達勢と上杉勢が戦い38名の遺骸を理めた塚あることから、滑塚と呼ばれる地名が残っていたり、九代伊達政宗が古屋舘に越冬した時に賜った什器などが旧家に受け継がれていたり、歴史を感じさせる地名や物語、そして史跡が多く残されております。
周辺マップ

安藤家住宅
 現在、七ケ宿町内に現存する茅葺き屋根の民家ではもっとも古いと思われます。天保8年(1837)に滑津宿に大火があって、大半が焼失したと言われているので、現在の安藤家住宅はその後の建築になると思われます。街道を挟んで向かいの桜井家が、滑津宿の肝入・検断、問屋を慶長以来、天保年間まで務めていましたが、その後は、安藤家がその役目を引き継いだようです。そのため、建物の造りは重厚でげ9道に面する宿泊棟の正面には「干鳥破風に懸魚」の付いた玄関が設けられております。現在、七ケ宿街道で藩政時代の面影を残しているのは、材木岩公園内に移築復元された「検断屋敷」の木村家住宅とここ安藤家住宅のみです。



 峠田は、藩政時代に入り仙台藩が計画的に宿場として成立させられたものと思われ、おそらく他から住民を移住させたようです。当時は湯原村に所属し、安永風土記書出(1777)によると、慶長年中(1600)頃、大窪内膳なる者がこの地の南館に居住したと伝えていますが、南館の揚所は確認されておりません。昭和12年(1937)5月15日の大火のため集落の殆どが消失してしまったので、宿場の面影があまり残されておりません。周辺マップ

弘海坊のお墓
その昔、この地域に火災が多かった頃、峠田の米沢屋に弘海上人という旅の僧が滞在していました。この僧は、ある晩から病に倒れ床につき長い煩いの末臨終を迎えた時に、「私が死んだらオマル(ダンゴ)を作ってー緒に理め、三年後に掘り起こしてみて、オマルが火打石のようになっていたならば、私を火伏せの神として祀って欲しい」と言い残して死にました。人ノマは遺言に従って墓を掘り起こして見ると、僧が言ったとおりオマルが火打石のようになっていたので、村人は「火伏せの神」として弘海上人を祀るようになったと言われ、現在でも地域の厚い信仰があります。



 湯原という地名の由来について、安永風土記書出(1777年)によると「古来、当<br>
村の束側に、湯釜沢と言うところがあり、お湯が沸き出していたので、湯原と言われた」
とあります。湯原館や御番所があり、七ケ宿街道の中でも重要な宿場でした。周辺マップ

湯原館跡
 湯原小学校―帯は昔から、御館と呼ばれており、記録によると正保元年(1644)以前は、伊達家宿老中野常陸之介の支配下にあり、横尾伊勢守一族が居住していました。その後、伊達家一門の石川大和領地となり幕末まで、石川氏の重臣が湯原館取締として輪番制で配置され二の丸(現在の湯小校庭)に館屋や表門を構え、藩境の警備に当たりました。校舎裏山には、自然の地形を利用し人工的に手を加えられたと見られる土塁や空堀の跡が残っており、館の全容は中世的連郭式状山城の遺構が見事に残されております。




山形県の楢下宿と湯原宿の闘に、闘の宿が金山(上山市)と干蒲にあります。江戸時代には、ひかば新田として15、6軒の内、茶屋が4〜5軒並び名物「くす」が売り物でした。集落から約1キロ湯原寄りには、一里塚跡があります。周辺マップ

鏡清水
弘化2年(1845)山形藩主の秋元侯は、館林(群馬県)に所替えを命ぜられ、翌年の5月に七ケ宿街道を通り山形から館林まで約80里を移動しました。この引越の一行の中に、藩土山田喜太夫秀信がいました。その妻音羽子は、山形出発から館林までの道中の風景や風俗を写生画と共に記録を残しておりました。これによると、この辺の様子を次のように書いております。「金山峠の不動尊に詣でたところ、鶯の声が美しく聞こえ、山間よりの雲は絵に描いたようで、雲の湧くところは米沢通りとのことです。途中に雷神の小祠があり、泉が湧いているので、手拭いを湿し一息ついた。」このように、この清水で参勤交代の大名はじめ多くの旅人が喉を潤したようです。白石川の水源地であるこの鏡清水の由来は、あるお姫様がこの峠を通る時に、必すこの清水を鏡の代わりに、自分の姿を映して髪の乱れを整えたところからこの名が付いてと言われております。
(七ヶ宿町 高橋正雄)

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