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街道ノートconcept

羽州街道ノート

§ 羽州街道と参勤交代


↑左(上):上山市楢下の滝沢屋脇本陣にある「宿札」、右(下):佐竹氏が金山峠を改良し峠に寄進した不動堂

 参勤交代に羽州街道を使った大名は13家だったといわれています。その藩を北からあげますと弘前藩、黒石藩(以上青森県)、秋田藩、亀田藩、本荘藩、矢島藩(以上秋田県)、庄内藩、松山藩、新庄藩、長瀞藩、天童藩、山形藩、上山藩(以上山形県)となりますが、時代によって変化があります。また、北海道の松前藩(本来は津軽海峡渡海〜奥州街道)と山形の米沢藩(板谷街道〜奥州街道)も何度か羽州街道を利用したことがあります。
 このうち石高が10万石以上だったのが弘前藩(10万石)、秋田藩(20万5800石)、庄内藩(14万石)です。参勤交代の行列が大きくなると、道の整備が重要になりますので、特に上記の藩は街道整備に力を入れたようです。なかでも大名行列の規模が大きい秋田藩では、新たに院内峠を開いたり、上山藩領や七ヶ宿の道を改良するなど各地の道普請に力をそそいだため、羽州街道を「佐竹道」と呼んだ所もあったようです。
 出羽各藩の大名行列が羽州街道を江戸に向かって進むわけですが、奥州街道を南下して江戸に向かう松前藩、八戸藩、盛岡藩、一関藩、仙台藩と桑折から先で一緒になる可能性がありました。行列の人数は数百人以上から藩によっては千人を越えますので、タイミング悪く小さな宿場で一緒になったりすると、泊まる所が足りず大変なことになります。そのため仲の良い藩同士では情報交換をし、日程をずらす事前調整が行われたようです。
 殿様が泊まったり休んだりする本陣には「佐竹右京太夫宿」とか「酒井佐衛門尉宿」、「津軽出羽守休」などと墨書した「関札(宿札)」という木札を門前に下げ、大名が利用することを伝えました。ちなみにこの関札は大名が用意し、事前に本陣に届けるものでしたが、道中の各本陣分を用意するのは大変だったと思います。
今も残っている宿札は楢下宿の「滝沢脇本陣」や「七ヶ宿水と歴史の館」などに展示されていますので、いつでも見ることが出来ますので、是非見学してください。

§ 一里塚

←両側の塚が健在な鴨巣一里塚(秋田県能代市)

 一里塚は参勤交代や旅人、駕篭かきなどにとって、かけがいのない存在でした。距離の目安だけでなく、旅人の休憩、駕篭や馬の賃銭を決めるのにも使われたためです。
徳川幕府が一里塚の設置を定めたのは慶長9年(1604)から10年。江戸に幕府を開いた3年後のことでした。五街道(東海道、中仙道、甲州街道、日光街道、奥州街道)は幕府道中奉行の直轄管理下にありましたが、それ以外の街道や一里塚は設置から維持管理まで、それぞれの藩にまかされていました。
塚に植える塚木も各藩の自由でした。秋田城下の久保田から江戸までの旅の記録である『道中記』には、一里塚の塚木が記録されています。秋田藩ではサイカチやケヤキ、新庄藩や山形藩では松や杉、仙台藩領の七ヶ宿や天領だった桑折ではエノキが多く見られます。

 珍しいのは新庄市の鳥越一里塚のブナ、横手と湯沢の中間にある石成の一里塚の梨、金山と真室川の中間だった主寝坂の北の一里塚は栗と漆が植えられていました。ほかにも桜やクルミなども見受けられます。
この『道中記』では、新庄鳥越一里塚と七ヶ宿の滑津一里塚は樟(クスノキ)と書かれています。クスノキは関東以西の暖かい地方に育つ木なので、もしかしたら間違いかもしれません。他の資料と比べてみたいものです。
残念ながら羽州街道沿いに、一里塚は多く残されていません。両側の塚が原形をとどめているのは、秋田県能代市鶴形にある「鴨巣一里塚」くらいでしょうか。さらに道の駅・かみおか(大仙市)の前、六郷(美郷町)、湯沢市吹張などには片側だけですが堂々とした塚と塚木が残されています。
また、秋田県八郎湖東岸の三種町から能代市桧山大森にかけ、かつて一里塚があった場所に連続して6カ所石柱や看板が立てられています。
こうしてみると一里塚は秋田県に多く残されているようですね。このほか皆さんの近所などにも一里塚があると思います。是非、一里塚情報をお知らせください。

§ なんのための参勤交代か

←津軽の殿様が参勤交代で通った桧山の松並木 (秋田県能代市)

時の権力者のもとに出仕する参勤は鎌倉、室町時代から行われていましたが、豊臣氏の時代になると、より権力者への態度を明確に表すため、大阪や伏見に屋敷を設ける大名が増えてきました。さらに徳川家康が関が原の戦いに勝利すると、外様大名が江戸参勤を始めたり、徳川氏に対して謀反の意思がないことを表すため、徳川氏から与えられた江戸屋敷に妻子や母親を住ませたりしました。
 慶長8年(1603)、家康が将軍になると江戸参勤は急増しました。寛永12年(1635)には3代家光が参勤交代制度を定め、大名などは毎年4月までに江戸参勤をするよう命じました。当初、交代の時期は1年おき。つまり1年は国元、1年は江戸に住むよう定めたのですが、8代吉宗の時代(享保7年・1722)に、財政難を理由に上米(あげまい・幕府に米を上納すること・一万石につき米百石)を命じ、代わりに3年に1年だけ江戸に住めば良いとするなど、制度は徐々に変化し始めました。

 秋田藩では享保9年(1724)、道中の雪が多いため3月中の江戸到着は困難なので、出発を遅らせても良いかと幕府と交渉し、「勝手次第」という答えを引き出しています。同じようなことは弘前藩でもあったようですが、事前に江戸参府の時期を変える交渉するなど、以前は考えられなかったことで、制度が緩み始めた証しといえます。
 よく参勤交代は大掛かりな大名行列を組みことや、江戸屋敷の維持に多大な費用を使わせ、大名の力をそぐのが目的だったといいますが、それは結果論のようです。本来は幕藩体制の維持が最大の目的で、幕府の権威の象徴が参勤交代だったといえます。幕末になり参勤交代を始めとしたさまざまな制度を緩和した頃から、たがが緩んだように幕藩体制はガタガタとなり、参勤交代どころか、幕府そのものが瓦解したのです。