斎藤茂吉のふるさと金瓶
 日本の国が形を整えてから1,500年。美しい自然の中で、人は神仏をうやまい、人を愛し、愛され、喜びを悲しみを歌いつづけた。人麻呂、実朝、芭蕉、良寛・・・・・・。数多くの歌びとのなかにひときわ高く、はかり知れない奥深さで、日本の心を歌いあげた歌びとがいた。その人は、斎藤茂吉。
 茂吉にとって、金瓶は父母から命を授かった土地であった。生命の原点だった。斎藤茂吉の生涯の営為は動かしがたいこの事実を土台としていたのだ。斎藤茂吉の生命と心を育んだ金瓶の村をわたしたちはこれからも誇りとし、大切にしていく。下の地図をクリックしてください。




歌碑→
宝泉寺
 茂吉の生家、守谷家の菩提寺。永仁三年(1295)開山。浄土宗の古寺である。
 少年時代の茂吉に仏教的な観念を植え付け、大きな影響を与えた佐原窿応和尚は、第四十世の住職。明治の書聖、中林梧竹に学んだ和尚の書は、茂吉の書の範となった。
金瓶学校
 明治15年(1882)生まれの茂吉が、7歳から9歳までこの学校に入り、その後は半郷の小学校に通い、高等科は上山町の学校で学んだ。
 明治初期の貴重な教育施設として上山市文化財に指定され、地区民有志が「金瓶学校保存会」を結成して管理保存に努めている。
茂吉の生家
   ・・・・・守谷伝右ェ門家
 元禄(1690)以前から代々続いた家。茂吉は明治15年5月14日、父熊次郎、母いくの三男としてこの家に生まれ、14歳までの少年時代を過ごした。大正二年五月、母の死を迎えた部屋が現存する。


茂吉の疎開先
   ・・・・・斎藤十右ェ門家
 妹なをの嫁ぎ先。昭和25年4月から翌21年1月まで疎開して滞在。太平洋戦争の終結をこの家で迎えた。天皇の終戦を告げる放送を、茂吉は羽織袴すがたで正座して聴いた。そのころ、斎藤家の裏の畑には、黒い葡萄「キャンベルス」が栽培されていた。



茂吉の父の生家・・・・・金沢治右ェ門家
 父熊次郎の生家で、村の中核的な家である。伯父12代治右ェ門92歳の賀の歌が、歌碑として建立されている。

おさよのこと
 茂吉が疎開した昭和20年ごろは、幼い茂吉が馴れ親しんだ人の多くは世を去っていた。だが、「おサヨという媼は90歳を過ぎて、まだ丈夫でゐた。この媼は私のために草鞋などを作ってくれた」と、茂吉は「小園」後記に書いた。おさよは茂吉にとって、幼い日のふるさとをそのまま実感させるたいせつな存在だった。昭和28年99歳で死去。
茂吉と柳月
 斎藤柳月(茂吉の義父となった紀一の父)は本名三郎右ェ門。絵画に秀でており、茂吉少年に絵の手ほどきをした。茂吉が終生絵画を好んだのはその影響もあったのだろう。

餓鬼大将・茂吉
 茂吉から全軍の総督に任じられた三瓶与十松は、後に新聞記者となってハルピンで活躍、その地で亡くなった。その死を悼む手紙が三瓶家に大切に所蔵されている。昭和5年にハルピンを訪れたときの作。


火葬場跡
 対照年5月23日、母いく死去。当時の風習にしたがって野仲の火葬場で焼かれた。その前後の連作「死にたまふ母」59首は、近代短歌の絶唱 とされる。


須川(酢川)
 蔵王山系の水を集めて、上山盆地を貫き、山形市の西部を北流して、最上川に合流する。酸性の強い蔵王温泉が流れ込むために金瓶より下流では魚が住まず、灌漑用水にも利用できない。「念珠集」の一編「八十吉」は、この川で少年が溺れ死んだ事件を素材としたもの。


金瓶橋〜三吉山
 金瓶の橋から南に見える三吉山は、秋田の大名佐竹侯が江戸時代に三吉明神を祀ってからこの名になった。金瓶からは山頂がやや傾いて見える。茂吉も子どもの頃から見慣れていた姿だったのであろう。この近くからは、出羽三山の高峰月山のまろやかな姿も見える。

湯坂の村里
 酢川を渡ると、のどかで穏やかな湯坂の村里になる。田んぼ、小川、あぜ道、小さなお堂・・・・。ここを通って、明治天皇小休所、七曲がりから早坂新道、狼石、旧羽州街道、黒沢の「やんめ不動」などへ行くことができる。幼い茂吉が母と一緒に歩いたところである。

明治天皇小休所(現斎藤茂吉記念館所在地)
 現在の「みゆき公園」。疎開中の茂吉が、上山への行き帰りに訪れては、しずかに時を過ごしたところ。
早坂新道
 明治11年(1878)初代山形県令三島通庸によって山形・上山を結ぶ新道として開鑿された。旧羽州街道は、坂が急で遠回りなのに対して、早く近いところから、早坂と呼ばれた。「念珠集」の随筆「新道」の題材にもなっている。道沿いの山に、明治天皇にちなむ「明治水」、金瓶の鎮守神明神社や、古峰神社の跡がある。


神明神社付近
 元村社。古くは現在の龍王橋の西にあたる段丘の上に鎮座していたが、明治32年奥羽鉄道敷設のとき、現在の場所に遷座。疎開中の茂吉は、しばしこの付近を歩いて歌を作った。
古峰神社跡
 元は木造の小堂があったが、今は石の万年堂と、窿応和尚の筆になる「古峰神社舊跡」という標識が建っている。


福田明神
 隣村黒沢村(現山形市の大字)の元村社。ここからは、金瓶の集落や蔵王連山が望まれる。



狼石
 金瓶の西はずれ、丘の上にある大きな安山岩塊。昔はこの岩の下の洞穴に狼が住んでいたという。この話は「念珠集」の「新道」に詳しく書かれている。茂吉の少年時代の思い出の地であり、以前は彼の好んだおきな草が群生していた。
[金瓶疎開のころ]
 私は別に大切な為事もないのでよく出歩いた。山に行っては沈黙し、川のほとりに行っては沈黙し、隣村の観音堂の境内に行っては鯉の泳ぐのを見てゐたりした。また上ノ山まで歩いてゆき、そこの裏山に入って太陽の沈むころまで居り居りした。さうして外気はすべてあらあらしく、公園のやうな柔らかいものではなかった。それでも金瓶村の山、隣村の寺、神社の境内、谷まの不動尊等は殆ど皆歩いた。さうして少年であったころの経験の蘇へつてくるのを知った。(「小園」後記より)

黒沢不動尊
 「やんめ不動」とも言われた。茂吉が幼い時分に目をわずらうと、よく母に連れられてお参りにいったという。随筆「母」にそのときのうれしかった気持ちが書かれている。疎開中も、ここに来てはしずかな時を過ごした。

蔵王第二小学校
 茂吉が学んだ半郷小学校の後身。学校の庭には、「茂吉植物園」は設けられている。また、作家外村繁の妻となった金子ていが本校卒業生であることから、二人の文学碑も建てられている。
以上、金瓶学校保存会/(財)齋藤茂吉記念館「齋藤茂吉のふるさと金瓶」から引用しました。
ページトップ
Copyright(C) 2004 Kaminoyama Machidukuri Juku All rights reserved

上山まちづくり塾
〒999-3192 山形県上山市河崎一丁目1-10 上山市役所 総合政策課内
TEL 023-672-1111/内線223・246 FAX 023-672-1112